専攻が家族社会学、社会福祉学で、特に精神障害者の家族研究をしている、静岡大学の南山さんという方をお招きして、本日は集中講義をしていただいています。
その休み時間を使って雑談してるんですが、話題は自然と家族の変化のようなことに向かいます。ご承知の通り?このごろ地域とか家族とかを見直したりしているところなので、とても勉強になります。
いえ、勉強になるのは専ら私だけで、彼にとっては家族社会学や地域福祉のジョーシキを講釈してくださっているに過ぎないのですが。
自分のために、昼ご飯の成果をかいつまんでまとめます。私の言葉に直しているので、文責は私。下記の文章がどれだけ間違っていても、まったく南山さんにはあずかり知らぬことです。
- 家族の意味の変遷については80年代から?議論されるようになってきている。
- 意味の多様化が大きくなって久しく、そのため既に“到達目標(あるべき姿)としての家族”という見方はしなくなってきた。
- 地域と家族の繋がりは必ずしも求められない。以前なら地域で充 足されていた相互扶助や楽しみなどは、それぞれに他の帰属組織から得られることも少なくない。例えば町内会ではなくアウトドアツーリングサークルとか。学会でも、“正しい家族像から外れている!”ということではなく、むしろ“そういうものだ”ということで論じられるようになっている。
- ただし、障害者と家族や高齢者の家族という議論まで含めて論じられているかというと、そうじゃないのではないか。
で、ここからはすごくいい加減な私の考え。
流行りのシステム論(システムズアプローチ)みたいなことを単純にイメージしますと、家族という小さなシステム単位があると、これが地域というシステムに含まれていて、さらに市町村や国などの大きなシステムの中にあるような多重円の構造図が描かれます。そうしますと家族に発生したニーズは先ず上位システムである地域などとの相互的な関係の中で考えられるような気がしてしまいますが、でも必ずしもそう単純ではなく、いろんな円(システム)とのかかわり合いの中で充足されるようになっている。そのような現状なので、私たちが地域の中に帰ろうとしても落ち着き先がはっきりしないのは当たり前だろう。私たちは地域という場所の中に在りながら、地域であったり地域でなかったりする場所に帰属し、それらとつながりながら暮らしているのだから。障害のある人たちにとっても戻るべき地域は同じであるかもしれず、だから“こういう暮らしをすれば地域で生活してるんだ”ということの具体的で統一された答えは見えにくい。“全制的な場所”からの離脱を果たし、暮らし方を自分で作り自分で決めて暮らすということをベースにしながら、後はそれぞれの楽しみ方あるいは充足の仕方を見つけていくしかないのだろう。それは別に「地域」でなくとも良い。「地域」にこだわる必要なんかない。もし地域幻想という言葉が許されるのなら、どうせ今は地域が曖昧になっている時代なのだから。ただし、生活を何処かとのつながりの中で補いながら生活していく必要がある人たちあるいは家族にとっては、その補い、つまり介助・支援をどう充足させるかという点については、こういう考え方では解決されていないし、忘れてはいけない。たぶんこの問題については明確な供給システムが必要だと考えたほうが良い。供給先は家族や地域というシステム単位だけで考えることは出来ないのだから、行政の提供体制や、民間のサービス流通システムによって賄われると考えるほうが当然なのだろう。