地域生活を考えよーかい

地域生活を考えよーかい

自立に向けて歩み出した息子

ぷりぱ利用者さんの母親でもあります釜本淳枝さんが先日発表された文章です。

掲載日:2003年1月9日
作成者:釜本淳枝さん


息子は、現在19歳。筋力がだんだん弱って行く進行性筋ジストロフィー症という病気です。

4月に西宮養護学校を卒業し、週3回、デイサービスに通っています。兄弟は、今健在なら18歳の弟と小学校2年生の妹がいます。小学校、中学校は地域の普通校に、高校は養護学校に通学しました。

小学4年生の頃には歩行が難しくなり、車イスの使用を考えている時、1歳年下の弟を同じ病気で亡くしました。突然の事で私と主人は立ち直れない程のショックでしたが、息子の方も親以上に心に大きな傷を残しました。私達、親の前では精一杯、元気に振る舞っていましたが学校では、つい寂しくなる事もあった様でクラスの友達や周りの人たちに支えられて過ぎたように思います。5年生になった時には完全に歩行できなくなり、車イスが必要となりました。病気が少しずつ進行している中、亡くした弟の生れ変わりかの様に3人目がお腹の中に出来ました。嬉しいはずなのに「お腹の子供も同じ病気を持っていたらどうしたらよいのだろうか」という思いがあり、悩みましたが弟を亡くしたばかりの息子の事を思うと悩んでいるわけにはいきません。このお腹の子が私を助けてくれる、そんな思いで産む事にしました。息子はだんだん大きくなって来るお腹を見ては、産まれる事を大変、楽しみにしていました。

そんな息子のためにも「産まれるまでは、頑張らなければいけないんだ」と、自分に言い聞かせました。

でも、その思いとは反対に、介助が大変になり、私ひとりで、出来ない事も増えて来ました。小学校へ登校して、教室のある2階へ移動、トイレ介助は、担任の先生がやって下さり、運動会では、学年のプログラムに「どうしたら参加できるか」クラスの友達と話しをして、参加しました。学校生活は楽しんでいました。家に帰ってからは、私の体の事を心配してくれました。子供に気ずかわれている事が痛い程、わかり、気がつくと「大ちゃん、ありがとう」が、口癖になっていました。学校でもクラスの一員として解け込めているんだという安心感もありました。6年生になる年の1月に阪神大震災がありました。もうこの頃には、妹が産まれていました。震災の時は、家だけではなく、周りも大変でした。避難所への移動も考えましたが、狭い場所での生活、トイレの事を考えると避難所へは行けませんでした。その後、周りの生活も、落ち着いた頃、小学校を卒業しました。つぎは、中学です。中学も地域の普通校を希望しました。だけど、入学にあたって、いろいろ問題もありました。普通校なので、車イスのスロープの設置トイレの改修が必要でした。春休みに、中学へ行き、スロープの事、トイレの事、登下校の事、授業の事などについて、担任になる先生、教頭先生と話し合いをもちました。学校生活の環境については準備はできましたが、地域の校区、3校から進学して来る子供達、すでに、中学に通っている生徒さん達の事がとても気にかかりました。親以上に息子は不安だったと言っていました。受け入れて下さる学校の方も息子の入学を受け入れたものの、どのように学校生活をさせたらよいのか、わからない事だらけではなっかたかと思います。入学当初から、私は娘を背負って、車イスを押して登下校しました。女の子達は、息子よりも幼い妹に、声をかけてくれました。中学では、担任の先生が教科担任であったため、授業が終わると職員室へ帰られました。中学も教室は2階で教室移動も多く、各教科ごとに教わる先生も違いました。2校時ごとのトイレの介助、体操は参加できませんでしたので、体育の時間のサポート、1日のほとんどの時間、私が学校に居なければなりませんでした。その度に、娘を連れて学校に行かなくてはならず、親子で入学したような気持ちになりました。こんな状態で、1年間を終え様としていた時に、カゼをこじらせて入院しました。入院中は、クラスの友達が息子あてに、メッセージカードを担任の先生に託して届けてくれました。中学では、中間、期末試験があったので、入院すると、皆より勉強が遅れる事を一番、気にしていました。1年は、あっという間に過ぎました。2年生になった頃、妹を保育所に預ける事ができました。身軽になり、やっと息子の介助に専念できると思いました。息子は思春期、そろそろ親への反抗も出てくる頃です。息子の周りの生徒たちも思春期、日中も私の目があるのでは、いつも自分達の行動を見られているようで、いい気持ちは受けないだろうと思い、先生にお願いして、私が学校に居る時間を短くするために、送迎だけにしたいと申し出ました。学校の先生方も大変だったと思います。私は、今まで学校に行っていた時間が自分の時間になりました。忙しさから遠のけたように思う反面、心配は倍になり、学校生活がクラスの友達とうまく行くように、願いました。そんな時、学校にエレベータが着きました。これで、移動が楽になると思いましたが息子に関わってくれる生徒が少なくなったようにも感じられました。1日の学校の様子、体調など迎えの時に聞きました。3年生では、長野へスキーの修学旅行に参加しました。リフト付きのバスをチャーターしてもらい、付き添いなしで、息子だけで参加させましたが、いつも親子で登下校していて、自分の体の事をわっかている親がいないという不安はあったようですが、友達と先生だけだったけど、楽しかったと、帰ってきて、話してくれました。いつまでも、親だけに頼るのではなく、親以外の人の手も借りながら、生活して行けるのだという事も、息子に教えたかったという事が一番の目的でした。時には、辛い事に直面させることも人生において必要だという事を口ではなく、身をもって体験させておくのも大切だと、息子に思わせるのも私の仕事だと思いはじめたのも、この頃だったと思います。中学では、毎年、寒くなると体調を崩して入院していました。勉強の方も難しくなる一方、高校入試も近ずいていたので、クラスの中もピリピリしてきていました。入試の事で、友達も忙しくなり、息子から、離れて行くのではないかという心配もでて来ました。唯一の休憩時間は、トイレに介助してもらって行くため無くなり、給食も、皆よりも遅くなりはじめ、教室以外の部屋で、保健室登校している生徒といしょに食べました。この時だけは、緊張がゆるんでいました。教室では、息子なりに精一杯がんばっている事がわかり、普通校では、時間に追われて気持ちに余裕がないんだなと思いました。高校は普通校か養護学校かで迷いました。中学の時に二度程、西宮養護学校を見学に行きました。一日の流れを時間に追われながら学校生活をしていた普通校とは全く違っていました。普通校では考えてもみなかった「ゆとり」が、養護学校にはありました。こんな中で、息子を見つめ直すのも良い事なのかな、私も親として、息子の将来の事を考えると、社会に出て行くための準備期間も必要ではないのかという思いもあり、養護学校への進学を決めました。入学当初は、先生や学校生活をサポートしてくださる介助員さんの多い事には、驚きました。一人の生徒に一人の先生がついて下さり、先生を身近に感じ、親と同じくらい気を許せ、悩みとか、いろんなことを相談できた事が良かったと言っています。通学は、スクールバスでしたので家につくまで、車内での数十分間は、運転手さんや介助員さんと話が出来て、楽しかったそうです。こんな学校生活は、あっという間でした。私自身、養護学校に入学した頃は、学校の様子が知りたくて、時間があれば、学校に出かけたり、お母さん方との接点を求めて、学校行事にも参加しました。このおかげで、私も早く馴染めたのも確かです。養護学校では、息子の事を改めて見つめ直すことができました。

自分から、すすんで障害者甲子園に参加したり、プロ野球選手に会いたいという願いを叶えたり、生徒会長として人前で、あいさつしたり、社会に出るための訓練期間だったと思います。中学の頃、教えてもらったパソコンも養護学校では、使いこなせるようになり、先生と曲作りにも、挑戦しました。パソコンの電源を入れる事のできなかった私は、息子から操作の仕方を教えてもらいました。このことがきっかけで、前よりも息子との対話が増えました。普通校では、周りの人に迷惑をかけてはいけないという思いが強すぎ、いつも心に余裕がありませんでした。障害が有るからといって、閉じこもるのではなく、どんどん外に出て自分をアピールすることの大切さを学んだのも、養護学校でした。体調を崩して入院する事はありませんでしたが、進路が決まった頃、骨折で入院、退院してきたかと思ったら精神的ストレスから、また、2週間入院しました。

卒業式に、間に合わないかと、先生も私もハラハラしましたが、何とか間に合いました。卒業後は週3回のデイサービスに行っています。在学中に実習で行っていた時とは気持ちが違っていたようで慣れるまで少し時間がかかりました。半年たつとデイでの過ごし方も自分で考え、七宝焼きをしたり陶芸をしたりしています。帰宅してからは、妹とテレビゲームをしたりしています。外出もガイドヘルパーの人の手を借りてしています。1ヶ月、60時間ですが、すぐに使ってしまいます。家では連れて出てやろうと思っても、横になって休むところとかトイレの事を思うと、なかなか行動に移せませんが、ガイドヘルパーの方は、息子が行きたいところを希望すれば何の抵抗も無く連れて行って下さいます。そこで、出会った人達とメール交換したり、話したりしながら、自分が何をしたら良いのか見つけているところです。だんだん親から離れて行くことも大切ですが、親以外の人に息子を知ってもらう事も大切です。今では、障害があった事で、学んだ事はたくさんあったように思います。車イスでの生活、自分で手を動かしたり、体を動かすことが出来なくても、生きていける周りの人を自分の生活リズムの中にサポーターとして利用して行けば、出来ないことはないと思えるようになってきたと、言っています。私も息子を子供扱いするのではなく、一人の大人として頼りにしていますし、社会人として、陰から支えてやろうと思っています。


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