地域生活を考えよーかい

地域生活を考えよーかい

〜地域での「自立生活」支援を考える〜


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地域での日常生活を支える「専門性」をめぐって

1.「施設」とは何か、そこでの専門性はどうであったか

 1980年代以降、ノーマライゼーションや地域福祉といった言葉が、社会福祉に関わる多くの人たちによって使われてきました。同じ時代のなかで福祉や介護の公共サービスとしての役割は以前よりずっと大きくなってきましたが、サービスの中心的な拠点は「施設」であり、福祉や介護の専門性もそのなかで組み立てられてきた側面があります。

 社会福祉の制度は、利用者の年齢や障害の種類別につくられています。「施設」は、その制度のもとで年齢や障害の種類別に集められた(集まった)人たちに対し、まとまったサービスを提供する場として機能してきました。そこは、サービスによって「支援する人」とそのサービスを受けて「支援される人」という限られた人間関係しか存在しない、特殊な空間といえます。地域からの物理的・心理的な距離は、問題を全て施設の中で解決してしまおうとする思考や意識を生み出します。一人の職員が何人かの利用者を見ていくというシステムのために、プログラムはあらかじめ計画され、突発的なことがらや失敗、変化は敬遠されます。また、「人権の尊重」や「個別支援」は施設全体の目標として強調されはしても、そこにいる人たちの具体的な選択や人権は、集団のなかの一人として制限を受けざるを得ません。

 そうしたなかでも、支援する側の人々によってサービスの改善が懸命に追求され、支援のための専門性が蓄えられてきました。しかし、その専門性の基礎は「施設」という特殊な環境のなかで築かれてきたものであることを、施設ではない地域生活での支援が強調されているいま、改めて考えておく必要があります。

2.日常生活の理解から出発して地域での支援を考える

 これからの地域での生活支援を考えていくときに、その前提として「日常生活」についての理解を新たにしておかなければなりません。日常生活とは「障害をもっている人達が自分で自分の日常生活を自ら作り出していく」生活であり、時間と空間で構成されるその人自身のものです。日常生活の支援においては、支援する側とされる側がお互いにどのようなパートナーシップをもつかということが大切です(太田氏の解説参照)。

 地域とは、いろいろな人との関わりがある場所です。本人のことに関知しない人、「支援する人」でも「支援される人」でもない人が大勢いるのが地域です。地域では、本人を支援する人たちの目の届く範囲でものごとが完結しません。しかし、多くの関わりの中で生まれる摩擦や相互理解のなかで、本人には日常生活に具体的に役に立つ経験や知識を身に付けていく可能性が開かれています。支援する立場には、その可能性を閉ざすことなく、本人自身による挑戦と失敗を見守ることが求められます。

 一方で、「自由」と「地域社会の秩序」や「本人の安全」との間のバランスをとっていくことは、地域生活の継続という点でも避けて通れません。しかし、「法律を守る」「生命の危険がない」ことはもちろんとしても、それ以外の点で明確な答えが用意されているわけではなく、一律のモノサシをあてはめれば本人の地域生活の幅を狭めてしまうことになるでしょう。さまざまな立場からの視点を付き合わせ、起きている事実や背景、周囲の状況、本人の思い等に対する的確な理解のうえに立って支援の方向性を見出していく作業が大切です。そこでは、本人に似た思いや経験をもっている当事者の立場からの視点は欠かせません。

 現実には、地域社会の理解のレヴェルやサービスの量等によって、支援を必要とする人たちの地域生活はいつでも断絶されてしまう状況にあります。支援する人たちがそうした現状に甘んじることは、そのまま支援を必要とする人たちの人生の可能性を否定することにつながりかねません。現状を打破し、地域社会の理解を広げ、サービスを必要十分なものにしていくための運動が不可欠です。

3.ビデオで見て欲しいこと

 「ノーマライゼーション」とは、障害をもっていても地域であたりまえに生きること、普通に生きること、といった意味で使われています。私たちの多くがしばしば使うこの言葉の意味を、改めて考える必要があります。つまり、「普通」とか「あたりまえ」とはいったいどういうことなのかを、です。私たちは皆、これらの言葉を同じ幅で、同じ深さで、同じ色で、使っているのでしょうか?自分のなかにある「普通」とか「あたりまえ」と他の人のそれは同じものなんだと、無意識のうちに決めてかかっているのではないでしょうか?

 ビデオのなかでは、グッドライフで日常的に議論が行われている様子が紹介されています。大きな机を囲んだ会議、事務所のなかで行きあった人同士による議論等々。そこには当事者もコーディネーターもヘルパーも、皆参加しています。たくさんの議論のなかで各自がもっている価値観を他の人のそれと並べてみて、多様な理解や多面的な視点を担保しながら、地域のなかで「普通」に「あたりまえ」に生きる姿が模索されているのです。

 グッドライフの運営側での石田さんをはじめとする当事者の位置づけや、『ピープルファースト東京』という当事者団体との関係も重要です。米国で始まった自立生活運動は、障害者当事者からの専門家に対する批判を出発点の一つにしており(末永氏の解説参照)、自立生活センターとしてのグッドライフも当事者主体のサービス提供が活動の重要な柱となっています。しかし、サービスを提供する人(支援する人)とサービスを受ける人(支援される人)の関係は、そのサービスが生活に不可欠なものであるがゆえに対等にはなりにくく、そうした力の不均衡は、サービスを提供する人が同じ当事者の立場であっても起こってくるのです。グッドライフでは、自分たちの行っている支援がどうであるのか、批判的に捉える機能を団体の中にも外にも意識的につくっています。そうすることで、支援のあり様を客観化し、自分たちの現在の位置を確認しようとしているのです。

 また、ビデオのなかでとくに観ていただきたいのは、ヘルパーの人たちの「考える」姿です。グッドライフでは、ヘルパーと利用者との関係を特別なものとしてではなく、どこにでもある人間的なものとして捉えているようです。しかしよく見ていくと、場面によってその関係や役割が転換しています。隣人として見守る場面、友人として声をかける場面、ヘルパーとして介護や家事援助を行う場面・・。それらは必ずしもあらかじめ予定されたことではなく、ヘルパーが利用者の人たちの生活を見つめ、その思いを想像し、状況を考え、行動し、ふりかえり、悩み、前述したような議論の場に持ち込んでいく、その繰り返しの結果であるように思われます。

 そんなヘルパーの姿を辛抱強く観察しているコーディネーターの人たちの存在も、ぜひともに注目していただきたい点です。今回のビデオは、ヘルパーと利用者との関わりに焦点をあてており、実際のコーディネーターとしての活動場面は登場しませんが、彼らの役割は、行政や家族、施設職員との話し合い、利用者のニーズや状況の把握、介護者の派遣の調整や、地域との交渉・調整、自立生活後の継続的なフォローなど、と説明されています。グッドライフのコーディネーターの人たちは皆、ヘルパーとしての仕事も日常的に担って動いており、ヘルパーの人たちと同じ目線でその動きをじっと見つめる姿勢は、そうした日常の延長線上で培われてきたのではないかと推測します。

4.地域の「パートナー」としての専門性を獲得するために

 日常生活が「本人が自分でつくっていく生活」であるならば、地域ではない「施設」という空間のなかで行われてきた支援や専門性をそのままそこに持ち込んでも機能しないか、もしくは管理的な捉え方で日常生活の本来的な意味を小さなものにしてしまうか、そのどちらかではないでしょうか。

 地域のなかでの日常生活のパートナーとしての支援者には、個別具体的な一人ひとりの人生や思いへの共感をベースにした関係の創造が求められます。支援する人も支援される人も、一人ひとり違う個性や価値観をもっています。互いにどんな関係を結んでいくかは他の誰かとの関係と同じものでは決してなく、同じようにはいかないはずです。また一方では、支援する相手との間の距離を常に自覚することが必要です。なぜなら、支援する人がもっている価値観や人間に対する理解の幅は、支援のあり方そのものに何らかの影響を与えるものであり、支援する行為には常に、相手の時間や空間を管理したり壊したりする危険性がつきまとっているからです。支援者側の「自律」が極めて重要な要素になってくると言えます。

 このビデオに出てくる人たちは皆、どこかで聞いた言葉ではない自分の言葉を使っています。象徴的なのが、ビデオの最後に出てくる一連のインタビューです。「自分はとてもヘルパーらしくないけれど、それが自分のヘルパーの姿なのかもしれない・・・」「存在感のあるヘルパーにはなりたくない・・・」「ヘルパーが自分で行き詰まった場所で自分で考えることが必要なんです・・・」。

 ホームヘルパーをはじめとする地域での日常生活の支援者とはいったいどんな存在で、どんな役割を果たすべきなのか、また果たすことができるのか。そこに必要な「専門性」とは、どのようなものなのか。ビデオのなかで地道に模索を続ける人たちの姿を通じ、改めて考えていただきたいと思います。

(朝比奈 ミカ)

始めに
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